関ヶ原の戦功により幕臣となりのちに水戸藩郷士となった城沢家の次男として生を受ける。
北辰一刀流道場で武術を学び、免許皆伝を受け師範代を務める。
文久3年(1863年)2月、江戸で結成された新選組の前身である「浪士組」に入隊。
当時の隊士は十五名であった。
文久3年(1863年)3月、「浪士組」と共に江戸から上洛。
京都に到着後、一部の隊士が勤王勢力と通じ、浪士組を天皇配下の兵力にしようとする画策が発覚する。
この計画を阻止するために「浪士組」は江戸に戻ることとなったが、長門・伊藤と共に強硬に京に残ると主張。
「浪士組」は「壬生浪士組」と隊名を変える。
長門雄作と共に局長を務め、筆頭局長となる。
壬生浪士組は城沢派と長門派が牛耳ることになった。
この頃の隊士は二十六名。
文久3年(1863年)5月、新選組の資金繰りのため豪商に金の無心に行って断われ、豪商の蔵に大砲を撃ち込んで炎上させる。
文久3年(1863年)6月、大阪へ下った際、大坂町奉行所与力たちと路地で小競り合いを起こし、与力五名に重軽傷を負わせる。
文久3年(1863年)7月、大阪奉行所から会津藩に苦情申し立てをされたことに腹を立て、大阪奉行所与力組頭を暗殺。
文久3年(1863年)7月末、島原遊郭の茶屋で芸妓総上げの新選組の大宴会を開くが、舞太夫がお高くとまっていると腹を立て、階段の欄干を引き抜き、大暴れして、城沢派の隊士と共に店を破壊。その上、店主から詫び代として百両を脅し取り、なおかつ店主に詫状を書かせる。
文久3年(1863年)8月、会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が、長州藩を主とする尊皇攘夷派を京都から追放した『文久の政変』で功績を上げる。
これにより会津藩より『新選組』の隊名を賜る。
文久3年(1863年)9月、大雨が降る深夜、島原遊郭で城沢派の隊士たちと豪遊し、泥酔して屯所に帰り熟睡しているところを、刺客数名が城沢の局長室に押し入り、同室で寝ていた城沢派の隊士数名を蒲団越しに刀で刺殺。続いて気配に飛び起きた城沢を斬殺。
享年三十五歳。
乱暴狼藉は数知れず、無類の酒好きだが酒に飲まれる酒乱。
豪傑、剣豪。
日常的には、豪快で子供好き。
武骨で粗忽な田舎者出稼ぎ集団新選組隊士たちの罪を、自ら被っていた節も多々。