文久3年(1863年)2月、江戸で結成された新選組の前身である「浪士組」に入隊。
当時の隊士は十五名であった。
長門や城沢とは、『攘夷』という志で結ばれていたが、新選組は佐幕派。
尊王攘夷派である己との間に密かに主義の矛盾を感じ始める。
文久3年(1863年)3月、「浪士組」と共に上洛。
京都に到着後、一部の隊士が勤王勢力と通じ、浪士組を天皇配下の兵力にしようとする画策が発覚する。
この計画を阻止するために「浪士組」は江戸に戻ることとなった。
これに対し、城沢・長門と共に、強硬に京に残ることを決意し「壬生浪士組」を結成。
文久3年(1863年)4月、「壬生浪士組」から、公武合体派の隊士数名が主義理想の違いを理由に脱退する。
この時脱退を誘われるが、「長門と城沢を説得し『壬生浪士組』を勤王公武合体派組織に変革していく」と約束し、隊に残り、脱退組と袂を分かつ。
文久3年(1863年)5月、博識を買われ、新選組参謀及び文学師範の座に着く。
文久3年(1863年)10月、己の目指す国創りが坂本竜馬の目指す国創りに最も近いと知り、朝廷をトップに徳川幕府をその下に置く穏便な無血革命を成し遂げるため、密かに土佐浪士たちと会合を持つようになる。
文久3年(1863年)11月、尊王倒幕派の薩摩藩士と会合を持つ。武力倒幕はさておき、公議による朝廷中心の政体づくりを目指すため、「新選組」を抜ける決意をする。
文久3年(1863年)12月、雪の降る深夜、屯所への帰途、綾小路の寺門前にて、待ち伏せていた副長以下数名の隊士により粛清された。
享年33才。